※『メアリと魔女の花』の序盤の設定に触れます。
森で花を見つけたら、知らない世界への入口まで拾ってしまった。『メアリと魔女の花』の面白さは、この落差にある。
公式紹介によると、メアリは花「夜間飛行」で一夜限りの魔法を得る。
強そうな剣でも、いかにも大事そうな宝箱でもない。花である。見つけたときの小ささと、その先に広がる冒険の大きさが釣り合っていない。そこがいい。
ただし、魔法を使えることと、魔法の世界でうまくやっていけることは別だ。以下は、この違いから作品を見る一つの感想である。
手に入るのは力であって、説明書ではない
力を得る場面には、すぐに何かが変わる気持ちよさがある。昨日までできなかったことが、今日はできる。長い訓練を描かなくても、物語がぱっと動き出す。
でも、力と一緒に知識までそろうとは限らない。
何をしてよいのか。誰の話を信じればよいのか。困ったときに、誰に助けを求めればよいのか。そうした判断は、花を拾っただけでは済まない。
たとえるなら、知らない建物の入館証だけをもらうようなものだ。扉は開く。でも、その先の部屋で何をしているかまでは分からない。
これは映画の魔法を実際の入館証だと言っているのではない。「入れる」と「分かる」の間には距離がある、という話だ。
花を摘んだついでに、魔法界の生活案内まで届いてくれれば親切なのだが。
きらびやかな入口の先も、安心とは限らない
日本テレビの作品紹介では、メアリが向かう場所として魔法の学府、エンドア大学が登場する。
魔法の学校という響きには、それだけでわくわくするものがある。知らない技術、見たことのない場所、自分にも何かできるかもしれない期待。
だからこそ、見る側には別の疑問も生まれる。そこは、入った人が安心して過ごせる場所なのだろうか。できることの多さと、その力をどう使うかは同じだろうか。
ここで「研究所だから悪い」「自然の花だから正しい」と決めつけると、話が単純になりすぎる。大事なのは、立派な建物か、森の中かではない。そこで何が行われ、誰にどんな影響があるかだ。
力に驚く目と、使い方を見る目。その両方を持って眺めると、きれいな魔法も少し違って見えてくる。
期限があるから、強さだけでは話が終わらない
ずっと同じ力を使えるなら、困った場面にも「また魔法で何とかすれば」と考えやすい。
期限付きなら、その答えだけには頼れない。今できることを、いつ使うのか。できなくなったとき、何を頼りにするのか。見る側も、力の大きさ以外を気にし始める。
これは、魔法の効果時間を細かく計算しようという話ではない。強さに終わりがあると、主人公の選び方にも目が向くということだ。
便利な道具を手に入れた話が、その道具だけでは済まない冒険になる。花は問題を片づけるためだけでなく、新しい問題へ踏み出すきっかけとしても働いている。
「なぜ拾えるのか」と笑いながら、入口を楽しむ
「そんなすごいものが、森にあっていいの?」と思わずツッコみたくなる。
ただ、それだけで作品世界の管理がすべていい加減だと断定する必要はない。見える範囲の不思議さと、設定の欠陥を証明したことは別である。
むしろ、手の届く場所にあるからこそ、自分にも冒険が始まりそうな感じがする。遠い王国の選ばれた人だけの宝ではなく、散歩の延長に入口がある。
小さな花を見つける。できることが増える。けれど、何をするかまでは花が決めてくれない。
『メアリと魔女の花』をこの角度から見ると、面白いのは「最強アイテムを拾った」ことだけではない。知らない世界へ入ったあと、自分で考えなければならないことが残る。その少し心細いわくわくが、魔法の花をただの便利な道具で終わらせない。
