「女房」を全部「妻」にすると、人物関係が迷子になる
現代語の「女房」から妻を思い浮かべ、そのまま平安文学を読むと、誰が誰に仕えているのか分からなくなることがある。
宮廷の女房は、天皇や后妃などの高位の人に仕えた女性たちだ。国文学研究資料館の講義資料
まず文脈を見る。「女房なら必ず妻」も、「平安時代なら絶対に妻ではない」も、置き換えが早すぎる。肩書の説明を読まずに家系図を描き始めると、こちらの頭の中で勝手な婚姻が成立してしまう。
紫式部も、彰子に仕えた人
紫式部は中宮彰子に仕えていた。お茶の水女子大学図書館の展示解説
この関係を「彰子の妻」と読むと、おかしくなる。ここでは誰の身近に仕えた人なのか、という理解が必要だ。
ただし、女房という言葉を知っただけで、一人ひとりの仕事内容まで全部分かったつもりにもならない。どの場面で、誰のために、何をしているか。役割は人物と場面に戻って読むほうが分かりやすい。
『源氏物語』では、間に立つ人が物語を動かす
「末摘花」巻では、大輔命婦が源氏と末摘花の間を取り次ぐ。与謝野晶子訳の該当巻
ここで気になるのは、恋をする二人だけを追っていると、間に立つ人物の働きを見落としやすいことだ。誰が相手のことを伝え、誰を通して話が進むのか。そちらに目を向けると、同じ場面の見え方が変わる。
これは物語の一例であって、平安時代のすべての恋愛に当てはまる制度図ではない。大輔命婦を、末摘花専属の「恋文審査係」と決めつける必要もない。
DM係にたとえるなら、比べるのは一部分だけ
外から届く言葉を本人につなぐ。その部分だけ、現代のメッセージを取り持つ人にたとえると、少しつかみやすい。
例えば、架空の会話を作ってみる。「一晩かけて、君への思いを詩にした」。その横から、「それで、届けるのは誰ですか?」。
恋をしている本人は、二人だけの世界にいるつもり。運ぶ人から見ると、自分の仕事もきっちり発生している。この視点のずれが面白い。
もちろん、これは古典からの引用ではないし、女房の正式な役職がDMモデレーターだったわけでもない。比喩は取次を想像するための足場で、当時の仕組みそのものではない。
取次役は、裏口のパスワードではない
「では、間にいる人を味方にすれば簡単では」と考えた途端、人が便利な装置になってしまう。
物語を読むなら、むしろその人にも注目したい。誰の意向を伝えているのか。本人の気持ちと一致しているのか。困っているのか、進んで関わっているのか。
取り次いでもらえたことと、相手が会いたいと思っていることも、分けて読む必要がある。恋文の配送が済んだからといって、恋の成立通知まで一緒に届くわけではない。
次は、恋文を持っている人を見てみる
平安文学の恋愛を読むとき、歌の美しさに加えて三つだけ気にしてみる。誰が届けたのか。誰の言葉として伝えたのか。受け取った人はどう応じたのか。
女房を「妻」の一語で片づけず、恋愛の受付係にも閉じ込めない。登場人物として読み直すと、二人の恋の周囲に、別の人の事情も見えてくる。
雅な恋文の場面なのに、「この一通、誰の手間で届いているんだろう」と気になり始める。そこから読む『源氏物語』も、なかなか面白い。
