カメラがオフだから、不在とは限らない
御簾の向こうに人がいる。でも、こちらから顔はよく見えない。
そこへ現代人が入り込み、「カメラ、オンにできますか?」と聞いたらどうなるだろう。もちろん、これは架空のたとえだ。相手の通信環境より先に、こちらの時代感覚を点検したほうがいい。
平安の宮廷や上流貴族の女性を読むとき、姿が見えにくい場面は気になる。ただ、それをすぐ「引きこもり」「家の鍵付きアカウント」と訳すと、分かった気になるぶん、本人が見えなくなる。
顔を見せない描き方にも意味がある
王朝風の絵では、姿を一部隠す表現が、身分の高さを示すことがある。斎宮歴史博物館の解説
つまり、顔が描かれていないからといって、「この人は恥ずかしがりだった」と性格診断を始めるわけにはいかない。絵が何を伝えようとしているのか、という問題もある。
ここで見ているのは表現だ。絵巻の一場面を、当時の全員の生活を撮った防犯カメラの映像のように扱わない。美しい場面ほど、描き方にも仕事をさせている。
顔を隠すことと、外へ出ないことは別
貴族女性の外出姿には、笠から垂らした布で顔を隠すものがあった。風俗博物館の服装解説
ここだけでも、「顔を隠す人は家から一歩も出ない」という想像には待ったがかかる。外へ出るための装いを、外へ出ない証拠にはできない。
ただし、これで誰もがいつでも自由に出歩けたと逆方向へ飛ぶのも早い。分かったのは、そうした外出姿があること。どの人が、何のために、どれくらい出かけたかは別の話だ。
「家アカウント」は、たとえの途中で止める
現代の鍵付きアカウントを思い浮かべると、「誰にどこまで見せるか」という感覚はつかみやすい。
でも、それだけで家族が全員のログイン情報を持ち、女性本人には設定を変える権限がなかった、と想像を足す必要はない。それは歴史の説明ではなく、こちらが勝手に追加した機能だ。
比喩は、分からないところへ渡る橋になる。橋の上に住み始めると、今度は向こう側が見えなくなる。人物を読むために使った「アカウント」という言葉で、その人を消してしまっては惜しい。
顔の向こうには、具体的な人がいる
紫式部は中宮彰子に仕えていた。お茶の水女子大学図書館の展示解説
こうして具体的な名前と関係に戻ると、「御簾の奥の女性」という一枚のイメージだけでは足りなくなる。誰のそばにいて、何をして、何を書き残した人なのか。読みたい問いが増えてくる。
一人の活動から、当時の女性全体が自由だったと結論づけることもできない。反対に、見えにくい場面だけで、意思も活動もなかったことにする必要もない。両方の決めつけをいったん脇へ置く。
次に見るのは、顔より場面
古典や絵巻で姿の見えにくい人物に会ったら、三つだけ確かめてみる。
誰が描かれているのか。どんな場面なのか。その資料から、どこまで分かるのか。
宮廷や上流貴族の一場面を、平安時代の女性全員へ広げない。顔を見たいという読者の気持ちと、本人を理解できるかどうかも分けておく。
「鍵アカだから中身が分からない」で終わるより、「この場面は、何を見せずに何を伝えているんだろう」と読むほうが面白い。カメラのオンを頼む前に、こちらの見方を少し変えてみる。
