動物番組の負けたオス、本当に落ち込んでる? 勝敗と繁殖は別の話
その退場、誰が「失恋」と決めたのか
こんな編集を想像してみよう。オス同士が争い、一方が離れていく。そこに静かな音楽と、「敗れた彼は、孤独に去った」という語りが重なる。
これは説明のための架空の場面だ。見ているこちらは、つい人生の終幕まで感じてしまう。本人がまだ画面の端を歩いているのに、視聴者が先に引退届を書いている。
でも、映像で確認できる「離れた」と、心の中まで説明する「すべてを諦めた」は、同じ情報ではない。
見えた行動と、こちらが付けた物語
姿勢、歩く方向、相手との距離。まず、画面に見えているものを言葉にしてみる。
そこから「悲しいのだろう」と感じること自体は自然だ。ただ、その感じ方だけで動物の内面を確定することはできない。逆に、映像から分からないからといって、動物には感情がないと決める理由にもならない。
「悲劇の敗者が去る」と「一方が相手から離れる」。同じ歩く場面にこの二つの説明を付ける、という想像をしてみると、観察と物語の違いが見えやすい。語りは便利だが、本人の署名入り陳述書ではない。
退いた理由は、一枚の絵では決まらない
疲れているのか。傷はあるのか。さらに争うのを避けているのか。別の場所へ向かっているのか。
これらは確認したい仮説であって、この場面だけで選べる正解一覧ではない。どんな種で、直前に何があり、その後どう動いたのか。判断には前後の情報が要る。
「今は離れた」を「これから一生、繁殖できない」にまで広げると、急に話が大きくなる。一回の勝敗は、その個体の生涯につける肩書ではない。
自然界に共通の「優勝者特典」はない
勝ったオスに交尾の証明書が発行され、相手がそれを確認する。そんな制度を想像すると面白いが、実際の行動を説明したことにはならない。
争いの結果と、その後の接近、交尾、子が残ることは、分けて確認したい。交尾が見えたことと、父親が誰かを確認できたことも同じではない。
相手側の行動も、背景に追いやらない。メスを優勝賞品のように扱うと、映像にいる別の個体を見落とすことになる。何が起きるかは種と状況を確かめる必要があり、「自然界は全部、現場を支配した者勝ち」と一つの仕組みに畳むのは早い。
別のやり方はある。でも、この個体の予定表ではない
同じ種の中にも、相手を守る行動や隙を狙う行動など、異なる交尾戦術がある。NeffとSvenssonの総説
だからといって、今去った個体について「あとで忍者のように戻るはずだ」とは言えない。ある行動が報告されていることと、目の前の個体がそれをすることは別だ。
「潔く諦めた」と決めるのも、「実は次の機会を狙っている」と決めるのも、どちらも先回りしすぎることがある。動物を武士にしなくてもよいし、代わりに策士へ配役し直す必要もない。
番組は入り口。自然界の全件一覧ではない
自然史映画の語りには、動物に人間的な特徴を重ねる表現がある。映画制作を検討した論文
また、調べられた動物番組では、生物多様性の構成と比べて脊椎動物が多く描かれていた。Howlettらの研究
これは、特定の交尾場面が意図的に隠されたという証明ではない。番組全体が作り物だという話でもない。
画面から知れることはたくさんある。ただ、「この番組で見なかった」と「自然界に存在しない」の間には、まだ距離がある。逆に、見えない場所なら何でも起きているはず、と都合よく想像してもいけない。
次に見たら、三つだけ気にしてみる
まず、何という種の話か。次に、実際に映った行動と、語りが補った説明はどこで分かれるか。そして、その個体の後の行動まで追っているか。
気になれば、番組の取材資料や、その種を調べた研究へ進む。野外で確かめたいからと動物へ近づかず、現地の観察ルールと距離を守ろう。
去っていく背中に物語を感じる楽しさは、そのままでいい。ただ、エンドロールを流す前に一呼吸。
この場面は終わった。でも、この個体の話が終わったかどうかは、まだ見ていない。
