『惡の華』と曲の内容に触れます。歌詞は引用せず、意味を要約しています。
アニメ『惡の華』のエンディングを初めて聴くと、少し変なことが起きる。
声は日本語なのに、普通の人が話す速さで進まない。言葉が途中で切れ、妙な間が空き、何事もなかったようにまた動き出す。曲名は「花」。名前だけなら花屋さんのBGMなのに、耳に届くのは深夜の閉店後の花屋さんだ。
「アニメの不穏さに合わせて、わざとこんな曲を作ったの?」
実は、怖さの種はアニメよりずっと古い。
呪いのような声は2001年からあった
ASA-CHANG&巡礼の原曲「花」は2001年発表。アニメ『惡の華』の放送は2013年で、エンディングの「花 -a last flower-」は原曲を改めて作り直した版だ。
つまり、アニメスタッフが突然おかしくなったわけではない。あの声の仕掛けは、アニメが生まれる前から存在していた。
しかも原作者の押見修造は、もともとこの曲に思い入れがあり、アニメ制作側へ紹介している。 作品に似た曲を探し当てたというより、作者が大切にしていた音楽と作品が出会った形だ。
人の声なのに「人の時間」で動かない
では、なぜ声があそこまで落ち着かないのか。
ASA-CHANGは打楽器の演奏家だ。本人のインタビューによれば、インドの音楽から着想を得て、言葉を意味だけでなくリズムとして扱う発想を育てた。
普通の歌は、言葉が自然につながる。ところが「花」では、声を細かく区切り、音を置く位置や間を緻密に決めている。設計図のような譜面を使った制作方法も語られている。
だから、完全な機械音とは違う。人間の声だと分かるし、言葉も聞き取れる。それなのに呼吸のタイミングが妙に合わない。
知っている声が、知らない生き物の時計でしゃべっている。
怖さの一因はそこにある。壊れた音を偶然録ったのではなく、そう聞こえるように組み立てた音なのだ。
歌詞の「花」は、何におびえている?
声の不気味さから、歌詞も「見てはいけない花を見てしまった怪談」に聞こえるかもしれない。
けれど歌の流れをたどると、別の景色が見えてくる。そこにいる花は、存在を否定され、風や暗がりにさらされながら、それでも生きようとしている。
「何か恐ろしいものを発見した人」の話ではなく、「ここにいるのに、いないことにされる花」の話として読むこともできる。
花が何の象徴なのかは、一つに決まっていない。孤立した人、自分でも言葉にしにくい感情、周りから否定された個性。どの読み方も、ここでは解釈であって公式の正解ではない。
最後の「水」が、曲をひっくり返す
この曲をただのホラーで終わらせないのが、最後に現れる「水」だ。
押見修造は2013年のコメントで、「花」に絶望や否定だけでなく、その先の希望も感じると語り、曲中の「水」とは何なのかを求めながら『惡の華』を描いていると明かした。
ここからは一つの読み方だ。
遠くの「光」を理想の自分や救いだと考えるなら、「水」は今ここにいる花が枯れずに生きるためのもの、と考えられる。
花を別の花へ作り替える話ではない。今ある花に何が必要なのかを問う話になる。
これなら、あの恐ろしい声と、かすかな救いが同じ曲に入っている理由も見えてくる。
『惡の華』のEDは、視聴者を怖がらせるためだけの呪文ではない。
人間の声をわざと不自然に刻んだ、2001年生まれの奇妙な音楽。その先で聞こえるのは、存在を否定された花が、それでも生きるために何を求めるかという問いだ。
アニメを見て「EDが怖すぎる」と思ったら、原曲も聴いてみてほしい。
呪いだと思っていたら、最後は水やりの話にたどり着く。 ただし、その水を何と呼ぶかは、聴く人ごとに違っていい。

