「昭和は暴言も長時間労働も理不尽も当たり前だったのに、昔の人はなぜメンタルを病まなかったの?」
いかにももっともらしい疑問です。
でも、前提のところから怪しい。昔の人も、普通に倒れています。
昭和どころか、古代の医学文献にまで記録が遡れます。長く続く恐怖、落胆、不眠、食欲低下、強い不安、異常な興奮に苦しむ人たちが、すでに書かれているのです。
だから本当に考えるべきなのは、「なぜ昔の人は倒れなかったのか」ではありません。
昔から倒れていた人が、時代ごとに何と呼ばれ、どこへ消え、どう記録されたのか。 こちらです。
1. まず「昔は倒れなかった」を疑う
いまは、仕事で心身を壊したときに、次のような言葉や制度が使えます。
- うつ病
- 不安障害
- 適応障害
- PTSD
- バーンアウト
- ハラスメント
- 労災
- 休職
- 復職支援
昔は、同じ言葉がありませんでした。
けれど、言葉がないことと、そういう人がいないことは別の話です。
「線状降水帯」という名前が付く前にも大雨は降っていたし、「過労死」という言葉が定着する前にも、働きすぎで倒れる人はいました。
診断名は、病気を呼び出す呪文ではありません。見つけて、分けて、相談して、助けにつなげやすくするためのラベルです。
2. 紀元前からログが残っていて草
古代ギリシャ・ローマの医師や哲学者は、病的な不安を、ふつうの恐怖とは別の問題として扱っていました。医学史のレビューによると、ヒポクラテス文書には、ある刺激に対して長いあいだ強い恐怖に襲われた人物の症例が記録されています。
ヒポクラテス系の別の文献には、長く続く「恐怖や落胆」をmelancholiaと結びつけた記述があります。不眠、食欲低下、落ち着かなさといった状態も書かれています。
ここでやってはいけないのが、2500年後から「この人はDSM-5の○○障害です」と勝手に診断することです。医学用語の意味は時代で変わりますし、melancholiaは現代の「うつ病」とそのまま重なるわけではありません。
それでも、これだけはかなり安全に言えます。
長いあいだ恐怖や絶望、不眠、食欲低下、行動の変化に苦しむことは、現代社会が発明したものではありません。紀元前からログがあります。
3. 昭和も普通に倒れている
では、日本の「昔」はどうだったのか。
厚生労働省の人口動態統計によると、1955年の自殺死亡数は22,718人、死亡率は人口10万人あたり25.4でした。
注意しておくと、自殺には仕事、精神疾患、家庭、経済、身体の病気、人間関係など多くの要因が絡みます。これを「昭和の職場のせい」と単純にはできません。
それでも、「昔の日本人はメンタルが強くて、深刻な心の苦しみで亡くなる人はほとんどいなかった」という話とは、どう見ても合いません。
そして過労死です。
厚労省の過労死等防止対策白書は、過労死が1980年代後半から大きな社会問題になり、1988年に全国一斉の「過労死110番」が始まった経緯をまとめています。
「昭和の会社員は理不尽に鍛えられていたから平気だった」と言うその隣で、昭和63年に全国一斉の過労死110番が開設されているわけです。
答えは、もう出ています。
4. 「病んだ人が少なく見える」5つの仕組み
では、なぜ「昔はみんな耐えていた」という印象が生まれるのでしょうか。
4-1. 診断名と制度が違う
精神障害の労災補償を見ると、制度が変わった影響がはっきり出ています。
厚労省の資料では、1983年度から1997年度までの15年間で、精神障害の労災請求は134件、認定は11件でした。1999年9月に精神障害等の判断指針ができ、その後は請求も認定も増えています。
これは「1999年から急に日本人が弱くなった」という意味ではありません。
申請できると知る人、診断を受ける人、仕事との関係を評価してもらえる人、制度にたどり着ける人が増えれば、行政の統計は変わります。
4-2. 会社から消えた人は思い出話をしない
「俺たちの世代はみんな耐えた」という話には、生存者バイアスが入りやすいものです。
耐えられた人は会社に残ります。倒れた人は、次のような形で、昔話をする側から外れていくことがあります。
- 長期欠勤
- 退職
- 配置転換
- 失業
- 入院
- 家に引きこもる
- アルコールなどへの依存
- 身体の症状
- 自殺
残った人だけを見て「全員平気だった」と言うのは、抜けた人を数えていません。
4-3. 心ではなく、体に出ることもある
仕事の負荷は、精神疾患だけに出るわけではありません。
WHOとILOは、週55時間以上の長時間労働について、週35〜40時間の労働と比べて、虚血性心疾患と脳卒中のリスクが上がると報告しています。2016年には、長時間労働が原因の脳卒中・虚血性心疾患による死亡を、世界で約74万5千人と推計しました。
「メンタルで休職しなかった」ことだけを見て「だから健康だった」とは言えません。
4-4. 苦しみを本人の性格として片づける
- 「根性がない」
- 「酒が弱い」
- 「神経質」
- 「家庭の問題」
- 「最近あいつ変だ」
- 「向いてなかった」
こう片づけられてしまえば、組織の問題は統計に上がりにくくなります。
名前がないことは、たしかに大事なポイントです。ただし効き方は逆で、名前がないから病まなかったのではなく、病んでも別の名前で片づけられやすかった、ということです。
4-5. 「耐えた」と「無傷だった」を混同する
出勤を続けた。辞めなかった。文句を言わなかった。
どれも、「健康だった」という意味にはなりません。
WHOは現在、仕事の量が多すぎること、仕事の裁量が低いこと、雇用の不安、権威的な監督、暴力・ハラスメント、周囲の支えの少なさなどを、職場でのメンタルヘルスのリスクとして挙げています。
人は、症状を抱えたまま働き続けることもできます。倒れるまで。
5. 「名前が付いたせいで病むようになった」は因果が逆
ハラスメント、PTSD、うつ病、適応障害。こうした言葉が広まると、当てはまる人が増えたように見えることがあります。
でも、分類が増えることと、苦しむ人が実際に増えることは別です。
医学史を見れば、病名が決まる前から、似た症状の記録があります。
言葉が増えると、次のことができるようになります。
- 自分の状態を説明できる
- 人に相談できる
- 医療につながれる
- 会社に配慮を求められる
- 労災を申請できる
- 統計に残る
- 再発防止の策を作れる
つまりラベルは「弱さを作る機械」というより、以前は床に落ちていた事故ログを拾う仕組みに近いのです。
6. 「昔は給料が上がったから耐えられた」は一部あり得る。でも無敵ではない
高度成長期には、「いまはきつくても、将来は給料が上がる」「会社に残れば生活が良くなる」という期待が、仕事の受け止め方を変えた可能性があります。
報酬、裁量、支え、雇用の安定、将来の見通しは、ストレスの感じ方を左右しえます。いまのWHOの整理でも、低い裁量、雇用不安、足りない報酬やキャリアへの投資などはリスク要因に入っています。
だから、同じ暴言でも、その先に得られる報酬や逃げ道、仲間、裁量によって負荷の感じ方が変わる、という議論には意味があります。
ただ、そこから「だから昔は倒れなかった」には飛べません。実際に、過労死も自殺も精神的な不調も記録されているからです。
景気は防具の一つにはなりえます。でも、無敵バフではありません。
7. 今の労災件数が多い=現代人が弱い、でもない
厚労省によると、2025年度の業務災害による精神障害の労災請求は4,958件、支給決定は1,082件でした。
数字だけ見ると、「昔より増えた」と言いたくなります。
でも行政の統計には、次のようなものが混ざっています。
- 診断を受ける機会
- 制度の認知
- 申請しやすさ
- 認定の基準
- 記録の仕方
- 雇用の構造
- 働き方
- 人口構成
- ハラスメントという考え方の広まり
だから、労災請求が増えたからといって、人間の耐久力が落ちたとは言えません。
逆に、昔の請求が少ないからといって、昔は誰も壊れなかったとも言えません。
別々の物差しで取った数字を、そのまま「根性指数」に直すことはできないのです。
8. 本当に変わったのは「壊れない人間」ではなく「壊れた後の扱い」
時代で大きく変わったのは、人間の基本設計というより、社会の受け皿のほうです。
昔なら、次のような言葉で終わっていたかもしれない人がいます。
- 「根性不足」
- 「変わった人」
- 「酒に逃げた」
- 「会社を辞めた」
- 「体を壊した」
- 「家にこもった」
いまは、そうした人が別の道に乗ることがあります。
- 「長時間労働」
- 「パワーハラスメント」
- 「精神障害」
- 「労災」
- 「治療」
- 「休職」
- 「合理的配慮」
- 「復職支援」
これは「現代人が甘くなった」という一方向の話ではありません。傷を傷として扱う社会のしくみが増えた、ということでもあります。
9. なので議論のスタート地点はここ
出発点は、「昔はあれだけ理不尽だったのに、なぜみんな平気だったの?」ではありません。
平気ではない人がいた。普通に倒れていた。ここからです。
そのうえで、次のことを考えます。
- どんな人が倒れやすかったか
- 何が守りになっていたか
- どの症状が、どう扱われたか
- 退職や身体の病気に隠れたケースはどれくらいあったか
- 診断や制度が広まって、何が見えるようになったか
- 今の職場で何を減らせば被害を防げるか
これなら意味のある話になります。
「昭和の人は鋼メンタル説」から始めると、最初の一歩でデータから落ちます。
10. 結論:人類、紀元前から普通にしんどい
要するに、人間は昔から壊れます。
- 紀元前の医学文献にも、長期間の恐怖や落胆の記録がある。
- 1955年の日本でも、自殺死亡率は低くなかった。
- 1988年には「過労死110番」が始まった。
- 1999年には精神障害の労災判断指針が整い、その後、行政の把握も広がった。
- いまも、長時間労働、低い裁量、ハラスメント、雇用不安などは健康リスクとして扱われている。
だから、「昔は倒れなかった。なぜ?」への一番短い答えは、これで足ります。
いや、倒れとるで。昔から。
変わったのは、人間が急に弱くなったことではなく、壊れ方につける名前、記録の仕方、相談の道すじ、逃げ道、補償の制度、予防のしくみのほうです。






